明日の心配を手放して、ただいまに没頭する。寂聴さんの言葉に学ぶ切に生きる心地よさ

コーヒー文庫本

4年前、あんなに元気で明るく、毎日活動的に動いていた母が病気であっという間に亡くなってしまいました。
その時のなんとも言えない喪失感は言葉では言い表せないけど、月日が経つにつれて「遅かれ早かれ、人は死を迎えてこの世から去っていくんだな」という、妙に達観した気持ちが芽生えてきました。

それが直接のきっかけというわけではないけれど、以来、死生観に関していろんな本を読んだりするようになりました。

先日、家の本棚を整理していたときのこと。
ずっと前に買って眠っていた瀬戸内寂聴さんの著書「寂聴仏教塾」の文庫本がふと目にとまり、何気なくページをパラパラとめくってみました。
日本人には馴染み深そうであまり詳しくは分からない「仏教」についてとてもわかりやすく解説した本です。

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瀬戸内寂聴著「寂聴仏教塾」

仏教は「生の教え」である

日本では、人が亡くなったらお葬式をして、お坊さんにお経を読んでもらい、戒名をつけてもらってお骨をお墓に入れます。法事やお盆、お彼岸など、仏教のお寺はなんだか「死んだ人」にフォーカスした行事ばかりだと思っていました。

しかし、本の中の「葬式不要論者だったお釈迦さま」というページを読んでハッとしました。

お釈迦さま自身は、「まだ体験してもいない死のことを考えわずらうな」と教え、ご自身のお葬式やお墓のことなどどうでもいいと考えていたそうです。
日本の仏教はよく「葬式仏教」と言われますが、本来の仏教は「生の教え」であって、死後のことよりも「今生きている間に、どうやって幸福になるか」を説いたものなのだと寂聴さんは書いていました。

そして、本の最後に書かれていたある一節に、思わず目が釘付けになりました。
そこには「切(せつ)に生きる」ということについて書かれていました。

日常の「いま」に没頭できているか?

中国の古いお坊さんが、「悟りを開くにはどうすればいいか?」と問われたとき、こう答えたそうです。

「われ、常に、ここにおいて切なり」

この「切」とは、今自分がしていることに没頭しきるということ。
「食べるときも、切に食べる。眠るときには切に眠る」。
明日のことを心配せず、今生きているこの一瞬に没頭していれば、死や別れを恐れることもなく、いつ心臓が止まっても悔いることはない—。そんな力強いメッセージです。

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なぜか全ての漢字に読み仮名がふられている本だった

この文章を読んで、考えさせられました。
僕らは普段、どれくらい「今」に没頭できているんだろうか。

ご飯を食べているときも、ついついスマホでSNSやくだらない動画を眺めてしまったり。「病気とかになって旅に行けなくなったらどうしよう」「仕事がなくなったらどうしよう」「大地震が来たらやばい」と、まだ起きてもいない未来のことばかり心配して、目の前のコーヒーの香りや温かさをすっかり無視してしまったり。

「切に生きる」というのは、決して何か特別な偉業を成し遂げるとか、毎日をドラマチックに生きるということじゃない。

朝起きて顔を洗うとき、水の気持ちよさをしっかりと感じる。
ご飯を食べるときは、一口一口をしっかり味わう。
夜眠るときは、布団の心地よさを感じながらぐっすり眠る。

そんな、当たり前すぎて見過ごしてしまいそうな日常の動作に、ただただ没頭すること。それこそが「切に生きる」ということなのかもしれないな、と思った次第です。

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毎日コメの飯が食えるありがたさといったらない

特別な場所に行かなくても、豊かな時間は作れる

自分は時々、どこか遠くへバックパッカー旅に出ることがある。もちろん、見たことのない景色に出会う非日常の経験は素晴らしいもの。
でも、そういった刺激的な場所にいないと「生きている実感」が得られないのだとしたら、日々の生活は少し窮屈でしんどいものになってしまいます。

寂聴さんの言葉に触れて気づいたのは、「どこにいるか」や「何をしているか」ではなく、「どんな心でそれに向き合っているか」が一番大事なんだということ。

たとえば、自宅でコツコツと仕事に向かう時間。
ベランダに出て、ただ揺れる木々の緑を眺めながらコーヒーを飲む時間。
誰に聴かせるわけでもなく、ただ自分のためだけにギターをジャカジャカと弾く時間。
あるいは、近所を散歩して「あ、もう蝉がなく時期か」と日本の季節感に思いを寄せる瞬間。

そんな派手さのない普通の生活の中でも、「いま、ここ」に意識を向けて没頭することができれば、そこには間違いなく深く豊かな時間が流れます。

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団地住まいなので弾くのはもっぱらサイレントギター

今回のケセラセラ あとどれだけ残されているか分からない人生を

寂聴さんは、本の最後にこう締めくくっていました。

「できうることならば、生きている間に、少しでも愛する人たちに何かをプレゼントしたい。少しでも人のために尽くすことができれば、それこそが生きる幸せではないかと思うのです」

そんな寂聴さんも5年ほど前に亡くなられました。きっとこの言葉通り最後は生きる幸せをたっぷり感じながら旅立たれたんじゃないかと想像します。

自分にとっても4年前に母が急に亡くなったとき、「人は本当にいついなくなるか分からない」ということを身をもって知ることになったわけですが、先の見えない未来を不安に思ったり、過去を悔やんだりするのではなく、今日という日を「切に」生きる。
そして、自分がご機嫌で満たされていることで、結果的に周りの人に少しでも温かいものを渡せたら、それ以上の幸せはないのかもしれないなーと思うのです。

人生の残り時間は誰にも分からない。
だからこそ、あの世で浄土に行けるかどうかを心配するよりも、今日の晩ご飯を美味しく味わい、今夜は切に眠ろうと思います。

皆さんは今日、どんな「いま」に没頭しますか?

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